「やりたいこと」と「ミッション・使命」は根本的に違う

ここに書くことは、私自身のアセンションのプロセスを通して経験的に感じて来たこと、そしてまた、他のライトワーカーたちを観察する中で、私なりに導き出した一つの仮説です。


「やりたいこと」と「ミッション・使命」は根本的に違う


最近の私は、人間レベルでの「やりたいこと」や「情熱」というものと、魂レベルでの「ミッション・使命」(魂の請願)は、根本的に違うものだと考えています。


私も最初は、この二つの区別がつきませんでした。


10年ほど前から私は、自分の「魂の請願(ミッション・使命)」を知りたいと強く思うようになりました。今では私なりに、自分のミッションを思い出し理解しています。


ですがそれで私が以前よりもハッピーになったかというと、必ずしもそうとは言い切れない部分があるのです。


多くの方は「自分のミッションや使命を思い出してそれに従事することができれば、幸せだろう」と思われるかもしれません。


ですが実際のところはどうかというと、絶え間ないエゴ(人間の自分)との闘いなのです。


「ミッション・使命」=「やりたいこと」ではない


この記事でご紹介した伊藤詩織さんの例を出せば、彼女のミッションは「日本社会の(性犯罪に関する)根本的な意識変革」とお見受けするのです(私が勝手にそのように思うということ)。


ですが、そのミッションに取り掛かれるためには、彼女自身がまずは性犯罪の被害者となって苦しみを味わう必要があったわけです。それでなければ、「私が立ち上がらなければ」とはならないですから。


そして社会のほぼすべてを敵に回してまで政治的影響力持つ男性の性犯罪を告発し、大変なバッシングを受けているわけです。そうすることで、陰湿で事なかれ主義的な日本社会の変化を促しているのです(ミッション)。


しかし、それが伊藤さんの「やりたいことである」というのはあまりにもあんまりでしょう。語弊がありすぎます。


人間(エゴ)レベルでは到底「望まないこと」でも、ミッションを果たすためには織り込み済みということは、多々あるのです。


マララ・ユスフザイ というパキスタン人女性は、パキスタン人女性の人権向上に尽力したことで、2014年にノーベル平和賞を受賞しています。


彼女の子供の頃の夢は医師になることでした。ですが、タリバンの支配下に入り「女性は教育を受けてはならない」とされ、夢を挫かれてしまいます。


その悔しさを綴ったブログが世界的に注目を浴びて支持を受け始めると、タリバンから命を狙われて頭部に銃弾を受けるという大ケガを負います。九死に一生を得て生き延びた彼女は、現在他の国で暮らしています。


マララのミッションは、「パキスタン人女性の人権向上の推進」であるとお見受けします。そしてそのミッションに取り掛かれるために、自分の夢である「医師になること」を諦め、タリバンから命を狙われて頭部に銃弾を受けるという過酷な道を通る必要があったのです。


これがマララの「やりたいこと」であるなどということも、語弊がありすぎるというものでしょう。


私が感じるフラストレーション


私自身が(規模は違えど)そうした状況を感じることがあるので、「ミッションや使命に携われていれば」満たされるとか、幸せだとかいう論調に、最近少なからずフラストレーションを感じているのです。


もちろん、人間レベルでの「やりたいこと」をやっていればそれが本物の充足感に繫がる方たちもいらっしゃるとは思います。


でも、魂レベルでのミッションを遂行するために、人間(エゴ)レベルでの「やりたいこと」を諦めて手放す必要がある人たちも、確かにいるのです。そしてそれは決して「心楽しい経験ばかりではない」ということなのです。


自分という人の経験を通して社会全体が大きく変わっていく様を見れば、一種の「やりがい」を感じるかもしれません。


ですが、「満足」とか「幸せ」とかいう類の感情や気持ちではないと思うのです。私自身はうまく言葉にできないけれども、それはやはり、何か別モノなのです。


この記事に書いたことを言語化できるようになるまでに、私自身、長いこと自分の気持ちと向き合う必要がありました。私が感じている根本的なフラストレーションは一体どこから来るのか、自分自身と対話を重ねて、突き止める必要があったのです。


この記事は、私自身の気持ちを整理するために書きました。どなたかの参考になりましたら幸いです。


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